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toshi_a1995★B級グルメと一行日記

B級グルメとアウトドア、気になるガジェットの一行日記

長崎 興福寺

国宝では無いですが有名な?お寺をもうひとつ。
長崎 興福寺です。
何がって。日本に多大な影響を与えた方を迎えたお寺として有名なようです。

お寺と言うよりこのお寺の禅師が有名。
日本文化に影響与えた方が中国より渡日した隠元禅師だということです。
さて、どう読みますか?

この料理に、

そう、使っているインゲン豆。
コレを持ち込んだのが隠元禅師との事。
その他にも、
建築や書画、彫刻、茶道、料理などの明朝文化。 禅師の名が付いたインゲン豆、すいか、なし、れんこん、なすび、もやしなどの野菜果実。さらに胡麻豆腐、胡麻あえ、けんちん汁。印鑑に木魚、煎茶や普茶料理(ふちゃりょうり・中国僧の精進料理)などがあり、現代の庶民馴染みの文化を持ち込んだ実にスゴイ方だったとのこと。
そんな興福寺はどんなところでしょう。

長崎 興福寺

「長崎三福寺」(興福寺、福済寺、崇福寺)のひとつ。
元和6年(1620)中国人がキリシタンでないことの証と唐船の航海安全の神、媽祖(まそ)を祀る寺として創建されました。
日本最初の黄檗禅宗唐寺(とうでら)。

・開基:眞円(しんえん、江西省出身)
元和6年(1620)〜寛永12年(1635)
・二代目:唐僧・黙子如定(もくすにょじょう・寛永9年(1632)渡来)
寛永12年(1635)〜正保元年(1645)
・三代目:逸然性融(いつねんしょうゆう・近世漢画の祖)
正保元年(1645)〜承応3年(1654)
三代目逸然性融は、当時下火となっていた禅宗に対して、新しい禅宗の日本への伝来を熱望し、当時、中国の福建省黄檗山万福寺の住職であった隠元禅師(いんげんぜんじ)を招請する事に尽力。
・四代目:隠元禅師
承応3年(1654)〜明暦元年(1655)
 度重なる懇請によって隠元禅師は承応3年(1654)長崎へ渡海され住職へ。
禅師の名声は日々に高くなり、その新鮮な明朝禅と徳を慕って各地から何百人もの学徒が参集したため、興福寺では、外堂など建て増して彼らを住まわせた程。聴衆は僧俗数千、長崎奉行も参謁したと記される。
そういう意味では、先見性を持ってスターを口説き落とした逸然性融こそスゴイ方と思ってしまう。
興福寺は、臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の地として記念すべき地となっている。
当時はそんな感じ。


大雄本殿(本堂)

本尊釈迦如来、脇立は準提観音菩薩と地蔵王菩薩を祀る。
材料は中国で切り込み、中国から招いた工匠が作った純中国式建築。
 柱や梁には巧緻な彫刻があり、とくに氷裂式組子(ひょうれつしきくみこ)の丸窓が特徴的。

。窓にガラスがはめ込んであるのがオサレですな。

鐘鼓楼

和風建築様式で、重層の上階は梵鐘を吊り太鼓を置き、階下は禅堂に使用。
なお、梵鐘は戦時中に供出して今はない。

三江会所門(さんこうかいしょもん)

長崎在留の清国人のうち三江(江南・江西・浙江の3省)出身者が明治11年(1878)三江会を設立し興福寺に事務所を置いた。
明治13年(1880)その集会場として三江会所が建てられた。
主屋は昭和20年(1945)原爆により大破し、門だけが遺存する。
豚などが門内に入らないよう工夫した「豚返し」により敷居か高くなっているのが特徴的。

中島聖堂遺構大学門

儒教の祖「孔子」を祀る東京の湯島聖堂佐賀県の多久聖堂とともに長崎聖堂は、日本三聖堂のひとつ。儒者向井元升が正保4年(1647)に聖堂・学舎を創設した。
寛文3年(1663)市中大火で類焼、一時衰退などあったが、元升の子元成が京より帰来したのでこれを迎えて再興、聖堂を正徳元年(1711)8月に竣成。
中島川のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれた。明治初年に廃滅し、杏檀門と規模縮少した大成殿を残すのみとなったので、昭和34年保存のため興福寺境内にに移築。
門扉に大学の章句が刻まれているので、俗に大学門と呼ぶ。

魚板(鱖魚けつぎょ)

庫裡(くり)の入口にさがる巨大な魚板、正式名称を「はんぽう」といい、お坊さんたちに飯時を告げるため叩いた木彫の魚。けつ魚は揚子江に住む幻の魚といわれています。
長年叩かれたので、腹部は凹んでいます。
もうひとつ並んでさがる小振りの魚板は雌で、雄雌一対で懸けられるのが特徴的。
雄の口にふくむ玉は欲望、これを叩いて吐き出させるという意味をもち、木魚の原型とみなされています。

長崎・黄檗宗東明山 興福寺

住所:長崎県長崎市長崎市寺町4-32
拝観時間:8:00~17:00
拝観料:個人:一般300円/中高校生200円/小学生100円